教えのやさしい解説

大白法 434号
 
依義判文(えぎはんもん)
 依義判文とは、「義(ぎ)に依(よ)って文(もん)を判(はん)ず」と読みます。義とは経文などに隠(かく)れた深義(じんぎ)をいい、文とは文字によって表された一代仏教の経文などをいいます。
 日蓮大聖人は、依義判文について『十章抄(じっしょうしょう)』に、
 「一念三千の出処(しゅっしょ)は略開三(りゃくかいさん)の十如(じゅうにょ)実相なれども義分(ぎぶん)は本門に限る。爾前(にぜん)は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但(ただ)し真実の依文判義は本門に限るべし」(平成新編御書 四六六ページ)
と御指南されています。爾前には爾前の経意(きょうい)は示されませんが、迹門の諸法実相の義に依って爾前の文を判ずれば、方便としての経意を表わすことができます。また迹門には迹門の化意(けい)は示されませんが、本門の真実の一念三千の義に依って迹門の文を判ずれば、垂迹(すいじゃく)の化導(けどう)としての意義を表わすことができます。そして、ただ本門のみ、その文が直ちに真実の一念三千の義を表わしているのです。
 爾前には迹門、迹門には本門と、より深い義によって経文を判(はん)じ、その経の意義を正しく理解するために、依義判文するのです。
 ただし、本門には、在世脱益(だつやく)の本門と末法下種の本門の二意があることを知らなければなりません。
 末法の本門とは、大聖人が『開目抄』に、
 「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(平成新編御書 五二六ページ)
と、一代諸経を浅きより深きに至る次第によって御指南された、仏法の究極(きゅうきょく)の法体(ほったい)である寿量文底(もんてい)下種の本門をいうのです。
 この文底の義、すなわち久遠元初(がんじょ)・寿量文底下種の法体である三大秘法の深義を知って、そこより立ち還(かえ)って一代仏教を判ずるならば、『撰時抄(せんじしょう)』に、
 「仏の滅後に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)・馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)・無著(むじゃく)・天親(てんじん)乃至天台(てんだい)・伝教(でんぎょう)のいまだ弘通(ぐずう)しましまさぬ最大の深密(じんみつ)の正法(しょうぼう)、経文の面(おもて)に現前(げんぜん)なり」(平成新編御書 八五一ページ)
とあるように、仏の最大深秘(じんぴ)の大法(だいほう)である三大秘法は、経文の面(おもて)にもはっきりと説かれていることがわかるのです。
 なぜなら、依義判文は、三大秘法と一代仏教との開合(かいごう)の原理によっているからです。
 開合の「開」とは、仏法の根本、久遠文底(もんてい)下種の体(たい)である一大秘法の本門の本尊は、戒壇・題目の三大秘法と開かれ、さらに本尊に人・法、戒壇(かいだん)に義・事、題目に信・行の六義と展開し、散(さん)じては八万法蔵となる相(そう)をいいます。また「合(ごう)」とは、八万法蔵の万行(まんぎょう)を合(がっ)すれば、六義となり、さらに合すれば三大秘法となり、そして全てが一大秘法に納(おさ)まる相をいいます。
 法華経を含(ふく)むそのほかの諸経は、一大秘法の本門の本尊を根源として顕われた教法です。ゆえに、釈尊一代の諸経は悉(ことごと)く本門の本尊の依義判文であり、ただ三大秘法の本門の本尊こそ、真実の一念三千の当体(とうたい)なのです。